本題の前にまずはいつもどおりの前置きです。
13時開演ということで、劇場周辺で昼食をとることにしたため、余裕を見て10時に出発。
行く前から阪神高速が渋滞とのことで覚悟していましたが、やはり松原線の駒川あたりから渋滞に巻き込まれました。環状線の事故の影響とかで、神戸線に入るまではノロノロ運転を強いられ、結局2時間以上かかって劇場に到着。
前回はレストラン入り口のカフェでボラレ気分だったので、今回は阪急の駅まで行ってサンドイッチのランチセットで昼食。同じ内容で半額以下だったので納得でした。
劇場に戻って中ホールに行ったら結構な客の列。ここでは1日1回だけの公演なので、補助席まで出た盛況ぶりでした。私たちの席は勾配のあるところだったので観やすくてよかったです。料金はなんと5,000円。
席についてまず目についたのは、ほの暗い舞台一面の夥しい古着らしい衣服の海。そしてぼんやりと浮かび上がるベッドのセット。原爆の被爆者が主人公とのことで、まず思ったのは敷き詰められた雑多な衣服が死者を象徴しているのかなという、まあありきたりな印象です。
↓当日買ったパンフレットから練習風景。この衣服類、スタッフがファスナーやボタンなど怪我しそうなものを全部外したとのことです。
話は入院中の「病人」(大杉漣)をその甥である「男」(木村了)が訪ねてくるところから始まります。
「病人」は広島で被爆し、背中にケロイドを負っていて、そのケロイドを街頭で見せて喝采を浴びることを生きがいにしてきたが、病状が悪化して入院しています。「男」の木村了、セリフが明瞭なのがまず好印象。しかし普通なら幕が上がってどんな話になるか、つかみの部分を探るのですが、今回の「象」はそんな常識は通用しません。いつまでたっても筋が見えてきません。
とにかくとりとめのない、意味や内容があるようでないセリフが延々と続きます。「病人」は病状がよくなったらまた違う趣向でケロイドを見せようとあれこれ甥の「男」に語りますが、二人の会話は全くかみ合わない。というか、登場人物すべての話がすれ違っていて、それに登場人物がいら立ち、感情をぶつけ合っています。観ている私たちもそれに引き込まれます。(笑)
「病人」は病気が治ったらケロイドをまた別の新しいパフォーマンスで見せようと語っています。それが彼の使命であるかのように。大杉漣はこのつかみどころのない会話を通して、憑かれたように「被爆者」を生き続けてきた「病人」を熱演しています。ちょっと早口になると聞き取りにくかったりしますが、とにかく膨大なセリフをよく憶えられるものです。
難解なこの劇に敢えて意味を付けるとしたら、原爆投下とそれによる惨禍が風化しつつあるもとで、世間に飽きられ始めた自らの被爆体験を、どのように訴え続ければいいのかと自問する「病人」の姿を軸に、それとは逆に、黙って静かに死ぬべきだと考える同じ被爆者である「男」との対比がテーマという感じでしょうか。
しかしこの作品の初演は1962年。まだ今と違って核に対する世論はもっと高揚していたはずですから、ちょっと違う感じですね。ただ、現在これを上演する意味としては、収束とは程遠い福島原発事故や、にもかかわらず懲りない原発再稼働の動きとかを考えたらあてはまるともいえますが。
でも、舞台はそんな単純な解釈で収まるものではなく、登場人物が語る饒舌で猥雑で俗っぽくてアナーキー(古っ!)で非論理的なセリフで観客は最後まで煙に巻かれたままです。もっとも私の前列に座った3人の方々は、その前に深い睡眠に落ちておられましたが。(笑)
解釈といえば、この劇、登場人物すべてが死者だと考えることもできる演出でしたね。
劇では、登場人物は退場となっても舞台の袖にハケるのではなくて(まれに袖に引っ込んだ例もありましたが)、出番が終わったら基本古着の中に潜り込んで隠れるのです。
つまり敷かれた古着すべてが死者であって、その死者が舞台の進行とともに、自身の言いたかったこと、し残したことを入れ替わり立ち替わり演じるのが今回の芝居だと言えそうです。
じっと古着に埋もれて出番待ちするのも大変ですが、こちらはその膨大な衣服(死者)の中から、オペラグラスで隠れている役者を探す楽しみもあったりします。(殴)
印象に残った役者は先の二人と、「病人の妻」を演じた神野三鈴。この人、去年は「組曲虐殺」の「伊藤ふじ子」や「サド侯爵夫人」での「シミアーヌ男爵夫人」でもいい演技で印象的だったのですが、今回もそれらに劣らず好演ぶりが目立ちました。不条理な劇でありながら条理にかなった演技(笑)、確かにこんな人が存在するなと思わせる、自然だが説得力のある演技がよかったです。
もちろん他の役者さんもあまりしどころがあるとは言えない役回りをがんばって演じていました(笑)。
ふわふわの古着の上で演じたり隠れたりするのは結構面白そうで、私は修学旅行の枕投げを思い出しました。(笑)
↓公演パンフレット表紙です。800円はお買い得。
兵庫での公演は今回1回だけで、ツアーとしても最後の大千秋楽。そのせいで入りは補助席まで出る盛況でした。
最後は劇場関係者司会で主役二人のトークショーがあったりして少し得した気分でした。司会者は勉強不足でしたが。
結局この舞台は、なにか大阪国立国際美術館で現代アートを見たような、わかったようなわからないような、いや「お客様わからない度実に95%以上(テレビショッピングかよ>私)」の観劇でしたが、「何とかの知恵は後から」で、帰宅してからあれこれと解釈が湧いて来るといった舞台でした。
ちなみになぜタイトルが「象」なのかは、作者の別役実自身わからないといっています(公演パンフレットの記事から)。
余談ですが、今月はけっこう観劇予定が多くて、中旬にまたこの劇場でこまつ座・「頭痛肩こり樋口一葉」を観て、下旬には宝塚大劇場で花組公演・「愛と革命の詩−アンドレア・シェニエ−」「Mr. Swing!」と楽しみな舞台が待っています。またつまらない感想を書きますので、お暇があればお越しください。
13時開演ということで、劇場周辺で昼食をとることにしたため、余裕を見て10時に出発。
行く前から阪神高速が渋滞とのことで覚悟していましたが、やはり松原線の駒川あたりから渋滞に巻き込まれました。環状線の事故の影響とかで、神戸線に入るまではノロノロ運転を強いられ、結局2時間以上かかって劇場に到着。
前回はレストラン入り口のカフェでボラレ気分だったので、今回は阪急の駅まで行ってサンドイッチのランチセットで昼食。同じ内容で半額以下だったので納得でした。
劇場に戻って中ホールに行ったら結構な客の列。ここでは1日1回だけの公演なので、補助席まで出た盛況ぶりでした。私たちの席は勾配のあるところだったので観やすくてよかったです。料金はなんと5,000円。
席についてまず目についたのは、ほの暗い舞台一面の夥しい古着らしい衣服の海。そしてぼんやりと浮かび上がるベッドのセット。原爆の被爆者が主人公とのことで、まず思ったのは敷き詰められた雑多な衣服が死者を象徴しているのかなという、まあありきたりな印象です。
↓当日買ったパンフレットから練習風景。この衣服類、スタッフがファスナーやボタンなど怪我しそうなものを全部外したとのことです。
話は入院中の「病人」(大杉漣)をその甥である「男」(木村了)が訪ねてくるところから始まります。
「病人」は広島で被爆し、背中にケロイドを負っていて、そのケロイドを街頭で見せて喝采を浴びることを生きがいにしてきたが、病状が悪化して入院しています。「男」の木村了、セリフが明瞭なのがまず好印象。しかし普通なら幕が上がってどんな話になるか、つかみの部分を探るのですが、今回の「象」はそんな常識は通用しません。いつまでたっても筋が見えてきません。
とにかくとりとめのない、意味や内容があるようでないセリフが延々と続きます。「病人」は病状がよくなったらまた違う趣向でケロイドを見せようとあれこれ甥の「男」に語りますが、二人の会話は全くかみ合わない。というか、登場人物すべての話がすれ違っていて、それに登場人物がいら立ち、感情をぶつけ合っています。観ている私たちもそれに引き込まれます。(笑)
「病人」は病気が治ったらケロイドをまた別の新しいパフォーマンスで見せようと語っています。それが彼の使命であるかのように。大杉漣はこのつかみどころのない会話を通して、憑かれたように「被爆者」を生き続けてきた「病人」を熱演しています。ちょっと早口になると聞き取りにくかったりしますが、とにかく膨大なセリフをよく憶えられるものです。
難解なこの劇に敢えて意味を付けるとしたら、原爆投下とそれによる惨禍が風化しつつあるもとで、世間に飽きられ始めた自らの被爆体験を、どのように訴え続ければいいのかと自問する「病人」の姿を軸に、それとは逆に、黙って静かに死ぬべきだと考える同じ被爆者である「男」との対比がテーマという感じでしょうか。
しかしこの作品の初演は1962年。まだ今と違って核に対する世論はもっと高揚していたはずですから、ちょっと違う感じですね。ただ、現在これを上演する意味としては、収束とは程遠い福島原発事故や、にもかかわらず懲りない原発再稼働の動きとかを考えたらあてはまるともいえますが。
でも、舞台はそんな単純な解釈で収まるものではなく、登場人物が語る饒舌で猥雑で俗っぽくてアナーキー(古っ!)で非論理的なセリフで観客は最後まで煙に巻かれたままです。もっとも私の前列に座った3人の方々は、その前に深い睡眠に落ちておられましたが。(笑)
解釈といえば、この劇、登場人物すべてが死者だと考えることもできる演出でしたね。
劇では、登場人物は退場となっても舞台の袖にハケるのではなくて(まれに袖に引っ込んだ例もありましたが)、出番が終わったら基本古着の中に潜り込んで隠れるのです。
つまり敷かれた古着すべてが死者であって、その死者が舞台の進行とともに、自身の言いたかったこと、し残したことを入れ替わり立ち替わり演じるのが今回の芝居だと言えそうです。
じっと古着に埋もれて出番待ちするのも大変ですが、こちらはその膨大な衣服(死者)の中から、オペラグラスで隠れている役者を探す楽しみもあったりします。(殴)
印象に残った役者は先の二人と、「病人の妻」を演じた神野三鈴。この人、去年は「組曲虐殺」の「伊藤ふじ子」や「サド侯爵夫人」での「シミアーヌ男爵夫人」でもいい演技で印象的だったのですが、今回もそれらに劣らず好演ぶりが目立ちました。不条理な劇でありながら条理にかなった演技(笑)、確かにこんな人が存在するなと思わせる、自然だが説得力のある演技がよかったです。
もちろん他の役者さんもあまりしどころがあるとは言えない役回りをがんばって演じていました(笑)。
ふわふわの古着の上で演じたり隠れたりするのは結構面白そうで、私は修学旅行の枕投げを思い出しました。(笑)
↓公演パンフレット表紙です。800円はお買い得。
兵庫での公演は今回1回だけで、ツアーとしても最後の大千秋楽。そのせいで入りは補助席まで出る盛況でした。
最後は劇場関係者司会で主役二人のトークショーがあったりして少し得した気分でした。司会者は勉強不足でしたが。
結局この舞台は、なにか大阪国立国際美術館で現代アートを見たような、わかったようなわからないような、いや「お客様わからない度実に95%以上(テレビショッピングかよ>私)」の観劇でしたが、「何とかの知恵は後から」で、帰宅してからあれこれと解釈が湧いて来るといった舞台でした。
ちなみになぜタイトルが「象」なのかは、作者の別役実自身わからないといっています(公演パンフレットの記事から)。
余談ですが、今月はけっこう観劇予定が多くて、中旬にまたこの劇場でこまつ座・「頭痛肩こり樋口一葉」を観て、下旬には宝塚大劇場で花組公演・「愛と革命の詩−アンドレア・シェニエ−」「Mr. Swing!」と楽しみな舞台が待っています。またつまらない感想を書きますので、お暇があればお越しください。