雨宮処凛さんが公立福生病院透析中止事件についてわかりやすく書いていると友人が教えてくれました。
確かに書かれていることは論理的で明快でした。でも、それでもなお、何かモヤモヤとしたものが残っていました。
そのモヤモヤは、どうして担当医が、途中から患者が透析再開を望むようになったのに、その声を無視し続けられたのか、苦しむのを見ながら頑として透析再開を拒否し続けられたのはなぜか。
彼の「確信」はどこからきているのか。
担当看護師も、医師の指示に従ったとはいえ、ありえないほど大量の鎮静剤を投与し、その結果患者の死を早めたのに、その後も平然と自分の行為を正当化できているのはなぜか。
ここが理解できなかったのです。
今日もずっとこれまでに入手したいろんな資料を見ながら考えていて、ようやくひとつ答えらしいものが見えてきました。
担当した医師と看護師は、「人工透析患者は助からない終末期の患者。人工透析は患者の負担になるだけで、無意味で無駄。ただ延命しているだけ」と考えていた。人工透析は治療などではなく、いずれ来る死を先送りしているだけだと。
だから今回患者が人工透析をやめると「意志表示」した(実は誘導した)のは極めて合理的で理性的な判断で正しい、これは最大限「尊重」しよう、そうするのが自分たちの唯一無二の使命だと彼らは考えた。
この「確信」に支えられていたからこそ、透析中止で苦しみ喘ぐ患者が必死で透析再開を訴えても、せっかくの「賢明な判断・意思表示」が呼吸困難や苦しさなどで揺らぐことがあってはならない、だから鎮静剤で楽にしてあげようと大量投与して、死に至らしめた。
これらはあくまで「人道的」で正しい行為だった。
根本的に間違っている「確信」ですが、こう思っていたから最後までブレずにあんな酷いことができたのでしょう。
つまり「地獄への道は『善意』で敷き詰められていた」。
さらに恐ろしいのは、学会がそれを追認し合理化し、普遍化しようとしていることです。「生」を切り捨て、「死」を美化する風潮があらゆるところに存在している今の日本社会を象徴する事件だと思います。